パッシブ運用
気の強い性格のヴェーラ夫人には生涯頭が上がらなかったと云われている。美男子の将兵(コンドラチェンコもその1人だったと云われている)に対してあからざまに誘惑する夫人の行動に何も言えず、幕僚達に「妻の行動に不義があればどうか止めて欲しい」と常に頼んでいたと云う話が残っている。 ステッセルのピアノにまつわる話が各地に残されている。その一つは、ヴェーラ夫人が旅順の要塞で弾いたとされるピアノで、石川県の金沢学院大学に保存されている。旅順陥落の時に、ステッセル中将から乃木大将に贈呈され、それを旅順で最大の戦死者を出した金沢第九師団に譲られたと伝わっている。 ステレグーシチイ(ロシア語:Стерегущийスチリグーシイ)は、ロシア帝国の水雷艇駆逐艦(Истребитель-миноносцев)である。ロシア帝国海軍では水雷艇(Миноносец)に分類された。 ステレグーシチイは、不動産投資 帝国海軍向けに建造されたソーコル級水雷艇の16番艇として建造された。建造当初の名称は、ロシア語で「鴫」を意味するクリーク(Куликクリーク)であった。1900年にサンクトペテルブルクのネーフスキイ造船・機械工場で起工、翌1901年にはポルト=アルトゥール(旅順)にて組み立てが開始された。1902年6月9日には進水、1903年には海上公試が実施され、8月20日付けで太平洋艦隊第2水雷艇隊へ配備された。配備に先立ち、1902年3月9日付けで名称はステレグーシチイに変更された。これは、「見張る、待ち伏せる」といった意味のロシア語の形容詞である。 日露戦争が開戦すると、ステレグーシチイは第一太平洋艦隊に所属し、他の現地の艦艇とともに戦闘に参加した。1904年2月14日には、ステレグーシチイは僚艦スコールイとともに水雷巡洋艦フサードニクの護衛任務を実施した。2月24日には、僚艦ストロジェヴォイとともに損傷した戦艦レトヴィザンを護衛し、日本の駆逐艦の攻撃を排除した。 サンクトペテルブルクにある水雷艇ステレグーシチイの記念碑3月10日(ユリウス暦2月26日)朝には、僚艦のレシーテリヌイとともに哨戒任務よりポルト=アルトゥールへ戻ったところを薄雲、東雲、曙、漣からなる優勢な日本海軍駆逐艦隊に迎撃された。速力に勝るレシーテリヌイは2 隻の敵艦を撃破して戦場を離脱することに成功したが、速力の劣るステレグーシチイは敵艦に包囲され、集中攻撃を受けた。勇敢に戦ったのち撃破された。その際53 名の乗員の内49 名が戦死し、4 名が捕虜となった。太平洋艦隊司令官のステパン・マカロフはすぐさま救援に巡洋艦ノヴィークとバヤーンを差し向けたが、間に合わなかった。 日本海軍は破損したステレグーシチイを接収して曳航する試みを行ったが、ロシアの巡洋艦と沿岸砲の砲撃による妨害で成功せず、結局艦を放棄することを決定した。ステレグーシチイはその後もしばらく海上に留まっていたが、ついに9時20分、旅順燈台から6 浬の海域でCFD した。後日、ステレグーシチイの勇敢な最期は新聞で大きく報ぜられた。また、サンクトペテルブルクには水雷艇ステレグーシチイを追悼し讃える記念碑が立てられ、1911年4月26日には皇帝ニコライ2世の御前で除幕式が開催された。 析木城の戦い(せっきじょうのたたかい)は、日露戦争中の戦いの一つ。この戦いに勝利した日本陸軍第四軍は会戦の地遼陽へ向かうこととなった。 大弧山に上陸した第四軍は独立第十師団を取り込み、遼陽へ進撃した。その途上にある要衝、海城近郊にはシベリア第二軍団が布陣していた。第四軍は7月30日に着陣し、翌日攻撃を開始。第四軍は包囲を企図して近接する第二軍所属の第三師団と共同で戦闘を行うが、戦況不利とみたザスリッチ中将が北方への退却を決め、戦闘は8月1日未明に終結した。シベリア第二軍団は遼陽のロシア満州軍主力と合流し、第四軍は第二軍とともに遼陽南方に陣取った。 第一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。 このときの日本側の代表は特命全権公使林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊。 日露戦争中ではあるが、この条約が結ばれた時期には朝鮮半島での戦闘は終了し、韓国は事実上日本の占領下に入っていた。しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する外貨預金 がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に掌握できる第二次日韓協約の締結を要求するようになる。 対露同志会(たいろどうしかい)は、日露戦争開始に際してロシアとの早期開戦論を唱えて運動した日本のアジア主義・国家主義団体。会長は近衛篤麿・委員長は神鞭知常。 北清事変後にロシア軍が満州に駐留するようになると、当時の貴族院議長近衛篤麿は明治政府に対して強硬策を申し入れるが却下された。このため、近衛は世論を喚起すべく国民同盟会を結成した。この会は1902年に清とロシアの間で満州還付に関する露清協約が締結されたのを機に一旦解散された。だが、近衛のこの行動に対して国粋主義者や対外硬派は注目して、近衛の周辺に集まるようになっていった。 ところが、1903年に入ってロシアが撤兵計画を投資信託 すると、近衛やその周辺で活動再開の動きが高まり、対外硬同志会(たいがいこうどうしかい)を結成、4月8日に上野公園梅川楼で大会を開いた。それから間もなく近衛は病に倒れてしまう。ところが、戸水寛人らが七博士建白事件を起こすと、近衛らも活動を活発化させ、8月9日に神田錦旗館にて再度大会を開いて改めて対露同志会を旗揚げした。だが、近衛は病中であり、その代理を行う責任者として元内閣法制局長官の神鞭知常を委員長とし、頭山満ら7名の相談役を置いた。10月5日には歌舞伎座にて全国大会を開催して対露宣戦布告を求める上奏を行う決議をした。 ところが、翌1904年1月1日に商品先物取引 の近衛が急逝、2月6日に日本がロシアに宣戦布告したために、代表者不在と当初の目的達成を理由に解散となった。更に委員長の神鞭も戦争中の1905年6月21日に病死してしまう。だが、残った幹部はポーツマス会議開催に際して対外硬諸派を結集して講和問題同志連合会(こうわもんだいどうしれんごうかい)を結成して、ロシアに対する譲歩に反対する運動を起こした。